七年前


 手桶で水面をすくう。
 その中に漂う、慾の塊を排水溝へと流し捨ててから、王泥喜は浴槽の淵にしがみついている相手に声を掛けた。
 溺れそうになっているとかじゃあないよな?

「大丈夫ですか? 牙琉検事。」

 王泥喜に対して背中を向けているから顔を見ることは出来なかったが、元々色の濃い肌は更に色を増し、肩で息をしているのははっきりと見えた。
「…え…と。平……気」
 途切れ途切れの返事が、風呂の中に反響する。比喩でもなんでもなく、熱の籠もった声に、王泥喜が顔を顰めた。換気扇が廻っている音はするから熱が籠もっているせいではないのだろうけれど、まぁ、欲情に任せてやった事がやった事だ。
 熱いにきまっているのだろうけど。
 
「やっぱり熱かったんでしょう? お湯、ぬるめにはしときましたけど。」
 誘ってきたのは響也の方だから、調子が悪いとは決して言い出さないだろうと踏んで、王泥喜は湯舟から立ち上がる。それにあわせてお湯と響也の肩が跳ねた。
「熱くなんか、ないよ。」
 そんな台詞は肯定しているのと同じ事。全く変なところで素直じゃない人だと、軽く溜息をつき響也の背中に廻る。
 しかし、広い風呂だ。男ふたりが余裕で入れる浴槽など、王泥喜は温泉以外で見たこともない。感心して周囲を見回していると、恐る恐るといった様子で振り返った響也と目があった。
 途端、王泥喜に背を向けた。
「牙琉検事。」
 腰を屈め、耳元で呼んでやる。
「け・ん・じ?」
 う、とか、むとか言いながら、今度は身体ごと振り返った。しかし、王泥喜と目が合うと、口元まで湯舟に浸して見上げて来る。そのしっかりとした視線に、王泥喜は響也が湯中りをしてる訳ではない事に気が付いた。
「…ひょっとして、照れてるんですか?」
 さあっと頬を染める響也に、王泥喜は確信する。口元に手を添えたのは、そうしないと吹き出してしまいそうになるからだ。こんな仕草で、隠れているつもりなのだろうかと思うと笑いが止まらなくなる。
「今更…そんなに初々しくされちゃうと、また襲いたくなっちゃいますよ?」
「別に良いけど…おデコくんは笑いすぎ。」
 形良い眉を思いきり歪めたまま、響也はやっと口を開いた。そして、手元にあったカランを回す。勢い良く流れ出したのは水のようで、表面から立ち上っていた湯気がかき消されていく。
 バシャンという水音と共に、響也はそれを頭から被った。
そのままふるりと頭を回せば、飛び散る水滴と跳ねる髪が、まるで『清涼飲料水』のコマーシャルだ。前髪を片手で掻き上げて、上体を傾けた褐色の肌をなめるように水滴が落ちていく。
 爽やかな笑顔は王泥喜視点の正面で止まった。
「あぁ、気持ちイイ…って、どうしたのおデコくんも赤いよ?」
「え、あ、その大丈夫です。」
「…何が?」
 不審な視線を送る響也の問いはもっともで、一体何が『大丈夫』なのか己を問いただしたい気分だ。お湯に濡れ項垂れた前髪と同じく、たははと後頭部を掻く。
「そろそろ上がりませんか? その、いい加減のぼせますよ?」
 王泥喜はそう言い置いて脱衣所に入ると、後に付いてきた響也に篭の中にあったバスタオルを投げてやった。危なげなく受け取る相手の背景を見遣る。
「やっぱり広い風呂ですね。」
「ああ。うん、僕も気に入ってるんだ。」
 淡い色の髪をバスタオルで巻くと、王泥喜と同じく下履きだけ身に付ける。
上半身は裸で、自分が残した紅い痕は蒸気した肌よりも赤く目に焼き付いた。顔が熱い。やっぱり上がって良かった。これ以上いたら本当に卒倒すると王泥喜は思う。

「留学してた時のワンルームバスが酷く狭かったから、絶対そういうのは嫌でさ。こだわって、結構探したんだよ、僕。」
 そう言われれば、リビングの広さとかよりも風呂の内装に力の入ってるマンションかもしれない。(ちなみに、自分のアパートは全てに於いて力が抜けっぱなしだ。)
「七年前に独り立ちした時からそういうの気にしてる。」
「…? 部屋の内装って事ですか?」
 うんと頷いて笑う。
「ひとりで暮らすって事はさ、いつか大事な人を部屋へ招くって事だろう?
 だったら、その人も気に入ってくれるような部屋がいいじゃないか。」
 響也はそう言うと、ことさら嬉しそうに王泥喜の顔を見ながら笑った。
 その理屈が、いかにもスキンシップを取りたがる響也らしくて、王泥喜の口元も緩む。そう言えば、風呂もそうなのだがキッチンもセンスよく使い易いと感じた。

「だから、おデコくんが気に入ってくれるのが、本当は一番嬉しいかな?」

…とびきりの笑顔と共に告げられる言葉は、殺傷能力が極めて高くて。
 経験値の乏しい王泥喜のヒットポイントなど、一撃でゼロになってしまう。甦生するための教会も速効性のアイテムも無いので、王泥喜は暫く反応が止まってしまう。
 冷蔵庫から取り出されたばかりの冷えたビールを額に押し当てられ、王泥喜はやっと動き出した。
「つ、冷たいじゃないですか、検事!」
「だって真っ赤になったまま動かないんだもん、おデコくん。」
 クスクスと笑って、響也の綺麗な指が缶ビールのプルトップを外すと、中に詰まった炭酸ガスが間抜けな音と共に缶から出ていく。一部だけひんやりとした額に手を当てると王泥喜は憤慨した。大きなリアクションと共に開けた王泥喜の缶は、泡まで盛大に吹き上げてくれて、尚更に王泥喜を慌てさせる。
「大事な人とか、そういう事言い出すから。俺は七年前なんて、ただの中坊で、彼女すらいなかったのに…。」
 そこまで言って、はっと王泥喜は口を噤んだ。
(絶対莫迦にされる、この経験豊富そうなアイドル検事に。)
 しかし、王泥喜の思いとは裏腹な至極真面目な顔をした響也と眼が合う。
「それから?」
 響也は、王泥喜の瞳を覗き込む。「教えて、法介の事。知りたいんだ。」
「俺は…。」
 王泥喜は口籠もった。響也に語って聞かせるもの自体が思い浮かばない。
 両親を早くに亡くした人生が普通なのかと思えば、それは違うのかもしれない。それでも、取り立てて変わったものでも無いと思う。夜逃げするほどの貧乏暮らしでは無かったが、不自由なくと言えるほど豊でもなかった。
 公立の小中学校を経て、ちょっと頑張って高校に入り、もちょっと頑張って大学に行った。酷く虐めを受けた経験もなければ、もの凄くモテた事もない。
 幸いというか、司法試験に受かった事が唯一のサプライズだ。
 話出しにも困窮して、後頭部を掻きながら、首を傾げてしまう。
「…その…。面白い話なんか、全く無いですよ?」
「好きな人の事知りたいし、知ってもらいたい。僕はそう思うけど、法介は違うの?」
 王泥喜は、瞠目してからぶんぶんと首を横に振った。響也の事を知りたいと思う事は良くあった。何を考えているのか、自分の事をどう思っているのか。
 それは、牙琉響也という人物が、芸能人で検事で自分とは全く違う性格をしているからなんだと思っていた。
 そっか、好きな人だから、大事な人だからこそ知りたいんだ。
「俺も響也さんの事知りたいです。」
「僕は、全部法介に見せてるつもりだけど、駄目?」
 湯上がりのアルコールは廻りやすい。目尻をほんのりと紅に染めた響也が王泥喜を見つめる。
「全然足りませんから。」
 却下します。王泥喜の呟きに響也はくくっと笑った。


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